八甲田山遭難事故

北大路欣也と高倉健の映画「八甲田山」で有名な八甲田雪中行軍遭難事件。映画は新田次郎「八甲田山死の彷徨」という小説をベースにしているので話を面白くするための脚色が多いが、多くの点で実際の遭難事件をよく再現していると思われる。
映画では無事だった方の弘前歩兵第三十一連隊の徳島大尉(高倉健)実際は福島大尉と、遭難した方の青森歩兵第五連隊の神田大尉(北大路欣也)(実際は神成大尉)が事前に協議して八甲田山ですれ違う予定を立てているが、実際はそんなのはなくて偶然同時期に八甲田山の雪中行軍を行うことになったらしい。ということで、以下弘前第31連隊は関係ないものとして触れない。
また、映画では神田大尉がそれなりに入念な準備をしたのに大隊長の山田少佐(三國連太郎)(実際は山口少佐)が我儘にかき回したことにより指揮が混乱して被害を大きくしたように描かれているが、本当のところは神成大尉の準備不足(雪山に対する認識不足)がマズかったようで山口少佐も映画ほどは我儘な指示は行っていなかった模様。映画では見守り役の筈がしゃしゃり出てきたように描かれていたけど、本当は責任者だし。三國連太郎が憎まれ役を頑張りすぎちゃったのね。

青森歩兵第五連隊はどうなったのか確認

元々の予定は「第二大隊長ノ採リタル行軍計畫」によると
1日目、青森市内の第五連隊屯営(現在の青森県立青森高等学校)を出発して田茂木野(青森平野の端にあたる)から現在の青森県道40号に近いルートで山に入り、田代湯本で宿泊(村落露営)、約五里半。
2日目、田代から鱒澤付近に行軍し、宿泊(村落露営)、約四里半。
3日目、鱒澤付近から三本木に到達。約三里。
ただし、予定の備考として「第二日以下ハ實施セズ」とあるので、実際には2日目は田代湯本から青森の連隊屯営に戻る予定だったよう。

1日目(1902年/明治35年 1月23日)、90%以上を予定通りに進んだが、目的地近くの平沢で道に迷い露営。吹雪いているのに文字通りの「露営」という恐ろしい留まり方。この時点で既にヤバい。

2日目、田代湯本に行くことを諦めて引き返すことにしたが、僅か500mほど戻った鳴沢の複雑な峡谷の地形に翻弄され遭難。さらに少し戻ったところで露営。ここで体力がなくなった者、防寒対策の足りなかった者が大量に死亡している。

3日目、馬立場を過ぎて中ノ森と桉ノ木森の間のどこかで露営。馬立場と中ノ森の間で多くの死亡者が出ている。この日は斥候隊を出しているが、死亡した内の多くが本隊なのか斥候隊なのかは不明。すでに本隊はバラけ始めている模様。

4日目、5日目、引き続き青森方面に戻ろうとしているものの点呼して30名ということで、隊は賽ノ河原一帯で完全に崩壊してバラバラになっている。
後藤伍長が発見され第五連隊の遭難が正式に判明したのは5日目。(捜索はすでに始まっていた)

6日目、7日目、救助開始。

8日目、救助隊により多くの遺体が発見される。

9日目、倉石大尉、山口少佐らを救出。

10日目、救助隊により多くの遺体が発見される。

11日目、小屋などに避難していた数名を救出。

210名の内で救出されたのが僅か17名。その17名の内、救出後に死亡6名(山口少佐を含む)。

当時の資料・報告書を見る

青森歩兵第五連隊遭難状況 1
判りにくいが黒い点が死亡者の発見場所。広範囲に存在するということは露営中に死亡した者以外は行軍中にバラけたことを示している。他に見る報告書の図と若干違うようだがどうなのかしら?

青森歩兵第五連隊遭難状況 2
青森歩兵第五連隊が混乱の中どのように進んだかを陸軍が調査したもの。ただ、この図では桉ノ木森の東や北で死亡者が発見されている理由を説明できていないように見える。
(現在の県道40号に近い)正しいルートではなく道を外れて賽ノ河原の北側の駒込川近く(の斜面?)を移動した人が多いようで、ここで多くの死亡者が出ている。しかし、救出された人がいるのもそちらを進んだ方。山口少佐など。

「第二大隊長ノ採リタル行軍計畫」から「行軍ノ目的」
「雪中青森ヨリ田代ヲ経テ三本木平野ニ進出シ得ルヤ否ヤヲ判別スル為メ田代ニ向テ一泊行軍ヲ實施シ其實驗ニ基キ戰時編成歩兵一大隊ヲ以テ青森屯營ヨリ三本木ニ至ル行軍計畫並大小行李特別編成案ヲ立ツルニ在リ」

行李こうりは食料や弾薬などを運ぶ輸送隊。ここではソリ隊のこと。
第二大隊行軍實施並遭難ノ實況(一部抜粋)
「午後四時半頃中隊ハ馬立場南方約三百米突ノ凹地ニ達スルヤ行李ノ離隔甚タシク 近キモノハ中ノ森、遠キモノハ未タ桉ノ木森ニ達セス依テ鈴木大橋両小隊ニ命シ軽装セシメ行李運搬援助トシテ派遣ス 同時ニ藤本曹長以下十五名(喇叭らっぱ手一ヲ含ム)ヲ設營隊トシテ田代ニ向ヒ出發セシメタリ」(1月23日)

中略

「鳴澤東南高地付近ニ達スルヤ藤本設營隊ハ路ヲ失シ此高地ヲ一週シテ再ヒ鳴澤ニ來リ 行軍隊ノ後尾ニ合セリ 當時中隊長神成大尉ハ進路ヲ求メ且設營隊ヲ召致スルノ目的ヲ以テ先行セシカハ大隊長山口少佐ハ水野中尉田中今泉両見習士官ヲシテ田代方面ヲ偵察セシメシニ進路峻險ニシテ通過スヘカラザルコトヲ報告ス 加フル風雪しきリニ襲來シ天地漸ク晦瞑かいめいトナリ輸送隊ハ𫽷登ニ妨ケラレ又踉従セス兹ニ於テ大隊長ハ此地ニ於テ露營スルニ決シ左ノ命令ヲ下ス」(1月23日)

中略

「此夜風雪共ニ強カラズト雖モ寒氣零下七八度ヨリ十二三度ナリシナラン 五個ノ小隊ノ雪壕ハ約巾二米突長サ五米突ニシテ深サ二米突五十掩フニ屋蓋ナク敷クニ藁ナク又樹枝ナシ」(1月23日)

中略

「鳴澤凹地ヲ経テ馬立場ニ至ル決心ヲ以テ行進セシ一行ハ約三十分行程ノ后、路ヲ西北ニ失シ渓谷ニ至リ且ツ小流ニ出會シ前進シ能ハサルニ至リ始メテ其方向ヲ誤リタルヲ知リ再ビ露營地ニ帰還スルノ目的ヲ以テ轉囬てんかい行進ヲ始ム 未ダ露營地ニ達セサルニ佐藤特務曹長ハ方向ヲ知ルト稱シ自ラ進デ嚮導トナリ更に路ヲ東北ニ轉シ急峻ナル傾坂ヲ下リ困難ノ後駒込川ノ本流ニ會セリ 此頃已ニ九時ナリシナラン 風雪益々猛烈ニシテ五分ヲ経過スレバ𨂻開セシ通路モ忽チ痕跡ヲ失ヒ又判知スルヲ得ス 天日暗クシテあたかモ月夜ノ朦朧タルニ似タリ」(1月24日)

中略

「露營地ハ鳴澤南西小窪地ナリシモ風雪ヲ避クルニ足ラズ 又之ヲ防遏ぼうあつスルノ手段ヲ取ル能ハザリシ之レ各人殆ト凍傷ニ侵サレザルモノナリ 然ラザルモノモ疲困シテ活潑ナル四肢ノ運動ヲ許サヽレバナリ 各小隊ハ漸ク又銃ノ後相密接團欒シテ僅ニ積雪ヲ𨂻堅メ以テ其休宿地ヲ表シ或ハ足𨂻ヲナシ或ハ手指ヲ摩擦シ或ハ軍歌ヲ唱ヒ以テ睡魔ヲ破リ温ヲ保チ凍傷ヲ防カンコトヲ力メリ」(1月24日)

中略

「此時興津大尉ハ部下ニ抱護セラレ行進シアリシガついニ絶命シ兵卒ノ志氣大ニ消沈シテ遂次其数ヲ減ス 此往復間ニ於テ約三十名ハ昏斃シ田中見習士官、長谷川特務曹長等十数名行路不明トナレリ 午前五時半頃露營地ニ達ス 山口少佐又漸ク人事不省トナレリ」(1月25日)
中略

「午後一時頃漸ク帰路ヲ認メ一群喜色満面ニ顕ハレ風雪寒冷加ハリシモ昨日ニ比スレバ大ニ弱ク二百米突ノ周圍ハ明ニ展望スルコトヲ得タリ 午後三時馬立場ニ達シ兹ニ今井斥候ヲ待ツコト半時遂ニ来ラズ 憾ヲ抱テ又進路ニ就ケリ 中ノ森東方山腹ニ達スルヤ日既ニ西山ニ没シ行路漸ク不明トナリ風雪亦猛烈ニシテ再ビ悲境ニ沈淪スルニ至ル 或ハ進路ヲ誤リ雪崖ニ陥リ或ハ悲鳴ヲ擧ケテ救助ヲ請フノ状況トナレリ」(1月25日)
中略

「此夜風雪寒冷昨夜ト異トナラス 食物ハ缺乏けつぼうシ燃料皆無ニシテ将卒ノ神身全ク衰憊すいはいほとント常識ヲ有スル者ナシ 食慾ナク又暖ヲ求ムルノ念ナシ 唯茫睡魔ニ侵サレ昏倒スル其幾囬ナルヲ知ラス 互ニ相戒あいいさメテ或イハ蹴リ或イハ打撃を加ヘ以テ凍傷ヲ防キシノミ。」(1月25日)

中略

「午前十一時頃天漸ク曇リ風雪ト比シ寒氣従テ加ハル 飢餓ニ泣キ凍傷ニ呌ビ昏迷ニ斃ルヽ者又輩出シ死尸累々忽チ修羅ノ巻トナレリ 是リヨリ行軍ハ山口少佐及神成大尉ノ両群ニ分割セリ」(1月26日)
中略

「注意 一月二十七日以降ハ殆ト個人ノ動作ニ止リ行軍隊ノ運動トシテ記ス可ク且ツ研究スベキ價値ナシ 故ニ其後ハ各人ノ陳述書ニ譲リ行軍隊ノ記事は兹ニ筆ヲ擱ス」

陸軍歩兵大尉倉石一遭難陳述書 (最後一部抜粋)
「存命者ハ時々交ル交ル大隊長ヲ見舞ヒシニ其答トシテハ「未タ死スルヲ得ズ」ノ言ノミニシテ他ニ口ヲ開カレザリシ」

青森歩兵第五連隊遭難状況 3
医者による報告書から山口少佐の部分。映画では拳銃で自決していたが、実際はそんなことは無理だった様子。
画像が悪くて読みにくいが、 「二月一日収容、両手両足第三度凍傷
少なくも手足を失うべき凍傷、足は膝まで、腕は肘まで強く腫脹あれども脈及呼吸悪しからず。精神又昏、乱れあらず、興奮の處置てとせり?仝日(同日ではなく翌2月2日?)午前八時俄然呼吸及脈不良となり心臓麻痺に陥り仝三十分死亡す。」と書いてあるのかな?救出された翌日に入院してさらにその翌日に死亡したっぽい。

映画では登場しているのかどうかも判らない(記憶にない)が、一番凄いと思ったのは初日に大鍋を背負って運んでいた山本徳次郎という人で、重労働で体力を奪われていた筈なのに無事に生還できた(左足切断にはなったけど)。救助されるまで山口少佐を補助したのもこの人。生還できて且つ切断等もしなくて済んだのは冬用装備を出来たであろう役持ちの3名だけ。山本徳次郎は一等卒なので装備は貧弱だったと思うけど、どんだけ体が丈夫だったのか。

気象については当時の人はどうしようもなかったと思われる。最悪のタイミングで吹雪いたのが悪かった。一番の原因はこれ。
寒さに対する知識があまりになかった。これが2番め。せめて1日目、2日目のビバークで雪洞を掘って吹雪から身を守るということができていたらもう少し助かった人が多かったのではないかと思うけど、雪山の知識がなかったらどうしようもないか・・
平沢・鳴沢で迷ってしまってからの対応がマズかった。これが3番め。まぁスマートフォンでGPSナビして貰えない当時はどこまでも同じような雪原や複雑な渓谷で迷ったらもうどうにもならないよね。