小谷城・大嶽城 その2

小谷城 21
首据石のすぐ近くというか右への脇道を挟んだ場所に道標がある。写真の右方向(脇道)に進むと赤尾美作の屋敷跡。
立て札の説明。
赤尾屋敷 浅井氏の重臣赤尾氏の屋敷跡と伝えられている。家臣の屋敷では最も本丸に近くまた浅井長政最後の地となったことから、赤尾氏の浅井家における重臣としての地位がうかがわれる。

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脇道に入り赤尾氏の屋敷跡に向かう。脇道に入って暫くは道が細くその下の斜面も比較的急で足元も良くないので雨上がり直後は行かない方が良いかも。

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少し進むとあまり広くない平地に出る。でも赤尾屋敷はずっと奥。

小谷城 24
怪しく不気味な雰囲気も出てくるがまだ奥。

小谷城 25
ここにもしっかり表示があるのね。奥行きはあるが幅はそれほどでもないので大きな家は建ちそうにないがここが赤尾屋敷跡らしい。

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説明板の絵によると三段になっているらしい。現在いるのが三段の内の最上段。でも、中段と下段はみた感じあまりよくわからない。

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その屋敷跡らしい辺りに「浅井長政公自刃之地」の石碑がある。昔は拓けた場所だったのかもしれないが現在は木々により薄暗いので不気味。でも、とても静かで糞暑い日なのに風が気持ち良い。

小谷城 28
本道に戻り首据石の少し上、桜馬場跡(さくらのばば)。
御馬屋跡の上方、大広間跡の前にある曲輪(くるわ)で、細長く左右二段からなる。西側の曲輪では建物の礎石が確認されている。

小谷城 29
こちらも結構広い。二段あってそれぞれにテニスコートが置けそうなくらい。

小谷城 30
桜馬場の想像図。中央よりも右上の細く高い物見櫓様の建物がある広場がそれ。

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そして、桜馬場の北寄りに浅井氏及家臣供養塔がある。さらに北側の崩れた石垣の上にモノリスがある。

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モノリスには漢文がドバッと書いてある。漢文の上には「小谷城址碑?」と題字が書かれている。最後の字は「碑」ではないかも。
漢文の一行目に徳川家達蒙額とあるように見えるので題字が徳川家達によるものかな?「蒙」の字がイマイチ自信がない。徳川家達は最後の将軍である徳川慶喜の後に徳川宗家を継承した「十六代様」。
題字の下は漢文になってるが学が無いので読めない。パッと見では六角氏との戦いや信長軍との戦いから落城までが書かれてるっぽい。
石碑の高解像度写真(7.3MB)

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桜馬場の横からモノリスのある段に登るところが石段になっている。石の階段なのかたくさんの岩が転がっているだけなのか一瞬見ただけだとわからないけど。

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その石段の所が黒金門跡。(くろがねもん)
大広間に設けられた重要な門。「黒金門」と呼ばれているところから、鉄を打ち付けた扉であったと考えられる。

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黒金門を通るととても広い平地に出た。

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奥は更に広い。200mの陸上トラックがすっぽり入るくらいあるかも。突き当りに石垣が見える。

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想像図によると、どうやら突き当りが本丸の石垣。
本丸(ほんまる)・大広間(おおひろま)
本丸は、古絵図では鐘丸とも天守とも記される。南北40m、東西25mを測り、南北2段の構造で、北側の冗談に櫓(やぐら)を付属する中心建物が建っていたと考えられる。東西の石垣下には土塁が築かれ、敵が側面を回れない構造を持っていた。
北側の大堀切で、小谷城主要部は二つに分断される。南側には石垣が積まれ、その下の大広間は南北85m、東西35mを測り、山上の小谷城内で最大の曲輪となっている。大広間には御殿が建ち、井戸や土蔵が存在したことが分かっている。大広間南側には黒金門があった。

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上の想像図付き説明板の左横の窪地が大広間の井戸(跡)らしい。

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大広間突き当りの石垣前の立て札。
本丸 鐘の丸ともいう石垣をめぐらした約十二米の高所に約三十米に二十五米の広さをもつ 落城寸前まで城主長政が居住していた処でもある 彦根城西ノ丸三重櫓は元小谷城天守と伝える

と、書かれているが、本丸に建物はあってもおそらく「天守」的ではなかったろうから移築はできないでしょ。もしもあったとしても小谷城落城から彦根城の築城まで30年。落城時に燃えたり壊されたりしてなくても朽ちてたり近隣の人達にめぼしい資材は盗られてそうと思うんだけど。

小谷城 40
立て札右横に本丸への道というか斜面に石段があるが木の枝がそこを隠すように垂れてるので分かり難い。岩と一緒にある黒いのは土嚢だった。足元滑るので登り降り注意。

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