鎌刃城 その2

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斜面の上に「鎌刃城」「南郭」という表示が見える。ようやく城の中心施設部分だ。

鎌刃城12
南郭部分。尾根にちょっとした平地がある。地面の白っぽいのはゴミじゃなく岩。

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看板がある。北側を向いているわりには日に焼けたように褪せてしまって書いてあるのが見えない状態。

鎌刃城14
画像を加工したら読めるようになった。

「鎌刃城跡
鎌刃城は鎌倉時代に箕浦庄の地頭であった土肥氏の居城として築城されたと伝えられています。しかし城跡は番場の村から離れた山中に立地しており、在地支配の城ではなく、軍事的な目的のためにのみ築かれた城のようです。おそらく土肥氏は番場に今も残る「殿屋敷」に居館を構えていたのでしょう。
鎌刃城は江南の六角氏と江北の京極氏や浅井氏の国境に立地していることから、「境目の城」として室町時代に築城されたと考えられます。文献からも文明四年(一四七二)以降に登場し、六角氏方の今井氏が、京極氏方の堀氏の守備する鎌刃城を攻めたことや、堀氏が後に六角氏方に降り、再入城したことなどが知られています。
堀氏は元亀元年(一五七〇)、同族の樋口氏とともに織田信長に降り、翌年五月六日には浅井長政に攻められています。この時、横山城(長浜市)を守備していた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が応援に駆け付け、長政軍を撃退したことが『信長公記』に記されています。
城跡の規模は県内でも有数のものであり、当城が「境目の城」として重要視されていたことがうかがえます。城跡の周囲は鎌刃の名前どおり急斜面となり、南東尾根続きには七条にのぼる堀切を設けています。主郭は石垣によって構成されており、虎口は枡形となっています。北東尾根上の削平地群には石段を持つ、みごとな内枡形虎口が認められます。また、西側尾根上の削平地群先端には近江では数少ない畝状竪堀群も認められます。こうした遺構は戦国時代末期の特徴をよく示しており、元亀年間の織田軍門下時代に築かれた遺構であろうと考えられます。
なお城跡南東にある清竜滝付近には水の手と伝えられる岩盤をくり抜いて作られた石樋も現存しています。
平成五年三月
米原市教育委員会」

鎌刃城15
案内板

副郭(ふくかく)
主郭とともに鎌刃城を構成する主要な郭の一つです。礎石と思われる石材の散在状況から、礎石建物の存在が想定されます。郭(くるわ)の南端の巨大な土塁は、平成12年度の発掘調査から地山削り出し整形によるものと判明しました。土塁の外側には一部石垣が用いられるなど、城の南方防御の要として、その防御性を一層堅固なものにしています。
米原市教育委員会

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上の白看板を離れた場所から南を向いて。

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更に北に進むと人の高さほどの段差がある。

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登ると広い平地がある。(木が何本も生えているけど)

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上の平地の中心から南を向く。

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最も北側に進む。
書かれていることからどうやらここが主郭跡らしい。

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