小谷城・大嶽城 その3

小谷城 41
本丸の状態。写真は土嚢と石の階段を登ったところで奥(北)を向いて撮っている。奥半分は1段高い平地。手前の低い段と奥の高い段を合わせても広くは感じない。

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振り返って大広間を見下ろす。山の外が見えるわけではないが気持ち良い景色。

小谷城 43
反対にその他ぐるり300度ほどは木々により外の景色が遮られている。

小谷城 44
本丸の一番奥から北側は下りの急斜面になっている。わかりにくいが写真は斜め下を撮ったもの。

小谷城 45
本丸から大広間に戻り、本丸を西側に回りこむ道に入る。本丸西側の立て札。 御局屋敷跡
本丸の西下にある曲輪である。御馬屋敷から続く帯曲輪で本丸を守るために設けられた。谷から帯曲輪までは何本かの堅堀が配置されている。
至 御局屋敷50mという道標もあるが、残念ながら御局屋敷跡はわからなかった。おそらく現在地の1段下だと思われるがそこへの道がわからない。

小谷城 46
本丸の北西側まで来た。本丸とその北側の構造の間に非常に幅が10mくらいの大きな溝。現在はその溝の底にいる。つまり堀切の底。

小谷城 47
本丸の北西側から本丸を見上げる。石垣は無いようだが防御に適した急斜面。

小谷城 48
これが堀切の底。写真の左右いっぱいにかけての凹の形がよくわかる。

小谷城 49
大きな堀切だと思ったらこれが小谷城の大堀切。
大堀切跡
本丸跡の北にある大規模な堀跡で尾根を大きく削ってある。番所跡から本丸跡までとその上(北側)を区切るためのものである。

小谷城 50
大堀切の北側の構造に進む。小谷城は結構広い平地が多いと思う。ここは中丸。

小谷城 51
中丸(なかのまる)
南北3段から成り、最上段に刀洗池がある。この池の縁を通って、上段の京極丸につながる。3段目と2段目の間や1段目の南側正面には小規模な石垣が現存し、この曲輪も基本的には石垣で固められていたと見られる。虎口を中央に配置しているのは、中丸より上部の郭だけで、ここより下の郭は、敵がまっすぐ突き抜けられないよう側面から入る構造になっている。本丸との間に大土木工事によって造られた大堀切がある。清水谷側(この図では下側)には御局屋敷と通称される腰曲輪が付属する。

現在地は大堀切から左の一段目。御局屋敷は中央下の建物。

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中丸の2段目側から1段目側に出っ張りのある階段部。

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中丸の2段目。

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中丸の3段目には刀洗池がある。写真では凹が見えないかもだが写真の右半分が窪地になっている。残念ながら池らしさは皆無。

小谷城 55
中丸の次(上)の京極丸は平地が何段もある。

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京極丸の広い平地の上の段(の筈)。右側に登り斜面があるのは高い土塁。

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京極丸(きょうごくまる)
浅井氏が守護京極氏の居所として用意した曲輪といわれる。南北4段の構造を持ち、清水谷側(西側)(この図では下側)に枡形虎口がある大きな曲輪を付属する。この虎口は清水谷から登る「水ノ手」につながるが、小谷落城の際に秀吉が攻め上がった道である。須賀谷側(東側)に造られた高さ3mほどの土塁は小谷城西大の規模を誇る。

小丸(こまる)
山王丸と京極丸の間にあり、東西2段の構造を持つ。東側が高いが、小谷落城の際に久政が籠り自刃(じじん)した場所はここであろう。(想像図の左の2段)

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京極丸跡
京極氏の屋敷があったと伝えられている。大広間に次ぐ広大な曲輪である。天正元年(一五七三)八月二十七日夜半 羽柴秀吉によって攻め落とされ、久政(2代当主浅井久政)の守る小丸と長政(3代当主浅井長政)の籠もる本丸との間を分断された。

小谷城 59
広くても木が多いので暗い。落ち葉で足元がフカフカ。

小谷城 60
土塁。

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小谷城・大嶽城 その2

小谷城 21
首据石のすぐ近くというか右への脇道を挟んだ場所に道標がある。写真の右方向(脇道)に進むと赤尾美作の屋敷跡。
立て札の説明。
赤尾屋敷 浅井氏の重臣赤尾氏の屋敷跡と伝えられている。家臣の屋敷では最も本丸に近くまた浅井長政最後の地となったことから、赤尾氏の浅井家における重臣としての地位がうかがわれる。

小谷城 22
脇道に入り赤尾氏の屋敷跡に向かう。脇道に入って暫くは道が細くその下の斜面も比較的急で足元も良くないので雨上がり直後は行かない方が良いかも。

小谷城 23
少し進むとあまり広くない平地に出る。でも赤尾屋敷はずっと奥。

小谷城 24
怪しく不気味な雰囲気も出てくるがまだ奥。

小谷城 25
ここにもしっかり表示があるのね。奥行きはあるが幅はそれほどでもないので大きな家は建ちそうにないがここが赤尾屋敷跡らしい。

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説明板の絵によると三段になっているらしい。現在いるのが三段の内の最上段。でも、中段と下段はみた感じあまりよくわからない。

小谷城 27
その屋敷跡らしい辺りに「浅井長政公自刃之地」の石碑がある。昔は拓けた場所だったのかもしれないが現在は木々により薄暗いので不気味。でも、とても静かで糞暑い日なのに風が気持ち良い。

小谷城 28
本道に戻り首据石の少し上、桜馬場跡(さくらのばば)。
御馬屋跡の上方、大広間跡の前にある曲輪(くるわ)で、細長く左右二段からなる。西側の曲輪では建物の礎石が確認されている。

小谷城 29
こちらも結構広い。二段あってそれぞれにテニスコートが置けそうなくらい。

小谷城 30
桜馬場の想像図。中央よりも右上の細く高い物見櫓様の建物がある広場がそれ。

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そして、桜馬場の北寄りに浅井氏及家臣供養塔がある。さらに北側の崩れた石垣の上にモノリスがある。

小谷城 32
モノリスには漢文がドバッと書いてある。漢文の上には「小谷城址碑?」と題字が書かれている。最後の字は「碑」ではないかも。
漢文の一行目に徳川家達蒙額とあるように見えるので題字が徳川家達によるものかな?「蒙」の字がイマイチ自信がない。徳川家達は最後の将軍である徳川慶喜の後に徳川宗家を継承した「十六代様」。
題字の下は漢文になってるが学が無いので読めない。パッと見では六角氏との戦いや信長軍との戦いから落城までが書かれてるっぽい。
石碑の高解像度写真(7.3MB)

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桜馬場の横からモノリスのある段に登るところが石段になっている。石の階段なのかたくさんの岩が転がっているだけなのか一瞬見ただけだとわからないけど。

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その石段の所が黒金門跡。(くろがねもん)
大広間に設けられた重要な門。「黒金門」と呼ばれているところから、鉄を打ち付けた扉であったと考えられる。

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黒金門を通るととても広い平地に出た。

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奥は更に広い。200mの陸上トラックがすっぽり入るくらいあるかも。突き当りに石垣が見える。

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想像図によると、どうやら突き当りが本丸の石垣。
本丸(ほんまる)・大広間(おおひろま)
本丸は、古絵図では鐘丸とも天守とも記される。南北40m、東西25mを測り、南北2段の構造で、北側の冗談に櫓(やぐら)を付属する中心建物が建っていたと考えられる。東西の石垣下には土塁が築かれ、敵が側面を回れない構造を持っていた。
北側の大堀切で、小谷城主要部は二つに分断される。南側には石垣が積まれ、その下の大広間は南北85m、東西35mを測り、山上の小谷城内で最大の曲輪となっている。大広間には御殿が建ち、井戸や土蔵が存在したことが分かっている。大広間南側には黒金門があった。

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上の想像図付き説明板の左横の窪地が大広間の井戸(跡)らしい。

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大広間突き当りの石垣前の立て札。
本丸 鐘の丸ともいう石垣をめぐらした約十二米の高所に約三十米に二十五米の広さをもつ 落城寸前まで城主長政が居住していた処でもある 彦根城西ノ丸三重櫓は元小谷城天守と伝える

と、書かれているが、本丸に建物はあってもおそらく「天守」的ではなかったろうから移築はできないでしょ。もしもあったとしても小谷城落城から彦根城の築城まで30年。落城時に燃えたり壊されたりしてなくても朽ちてたり近隣の人達にめぼしい資材は盗られてそうと思うんだけど。

小谷城 40
立て札右横に本丸への道というか斜面に石段があるが木の枝がそこを隠すように垂れてるので分かり難い。岩と一緒にある黒いのは土嚢だった。足元滑るので登り降り注意。

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