高麗神社

年末年始にかけてルーターが壊れたりPCが使えなくなったりとネットが満足に使えない状態だったので大晦日の記事を今頃(2015/01/17)アップ。

埼玉県日高市の高麗神社(こまじんじゃ)に参拝して来ました。
正直参拝自体どうしようかなとは思ったのですが、アレな部分はあるものの由緒ある神社なので真面目に参拝。

私達は歴史で918年に朝鮮半島で建国した国を高麗(後高麗)、668年に滅亡した満州の高麗(前高麗)を高句麗として習っていますが、ここでは高句麗の方を高麗とします。(「習っています」と書いておいて何ですが、正直にいうと半島の歴史なんて習った記憶無いです。)
高麗が668年に唐&新羅によって滅ぼされ、その前後の混乱期に高麗の王族を含め日本に移って来た中に若光(じゃっこう)がいた。
朝廷は703年に従五位下の若光に王姓を与え、716年に武蔵国の辺境に高麗郡(こまぐん)を新設してその首長を若光として東海・関東に散在していた高麗からの渡来人1,799人を集めて住まわせた。現在の日本政府より当時の朝廷の方が移民の扱いが上手かったようです。
若光は猿田彦、武内宿禰を祀った社を建て、その若光も死後合祀されこれが高麗神社の始まりらしい。
その若光の子孫が代々高麗神社の宮司。
また、若光の菩提を弔う寺が高麗神社の近くの聖天院勝楽寺。

祭神 高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)
相殿神
  • 猿田彦命(さるたひこのみこと)
  • 武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)

武内宿禰は景行天皇(1世紀)から仁徳天皇(4世紀)の頃の政治家。素直に計算すると300歳以上。
猿田彦はその容姿から渡来人という説があるし武内宿禰命もそうなのでこの神社に祀られていても全くおかしくはないが、何故か神社のウェブにもパンフレットにも祭神についてしっかりした記載がありません。若光については書いてあるのですが猿田彦の猿の字もない。

JR高麗川駅から1.7km徒歩20分。途中に幾つも神社への案内板があるので、コンビニのセーブオンの所を曲がるというのだけ間違えなければ迷うことはないかと。記事を書いた当時はセーブオンだったのが2017年7月にローソン日高新堀店に変わっています。

高麗神社 1
高麗川駅から高麗神社への途中。既に日が暮れかけています。飯能の北方で関東平野と山地の境の辺りなので田舎な雰囲気。

高麗神社 2
高麗神社の鳥居前。謹賀新年の横断幕がありますが、参拝は大晦日です。

高麗神社 3
中の鳥居も木製の立派なもの。

高麗神社 4
社殿前の門。

高麗神社 5
その門の扁額を見ると「高句麗神社」と書いてある。何でわざわざ「句」の字を入れたのだろう。

高麗神社 6
こちらも初詣に向けて賽銭箱が横長の巨大なものに。脇の酒樽は高麗王(長澤酒造)という銘柄。ここまでやるかというほど高麗尽くめ。

高麗神社 7
境内には出店がありましたが、アチラ系の民族服や食べ物。この辺りだけまだ韓流が流行っているのかしらん。
興味が無いので通りすぎて、駐車場横。
高麗神社に入る前から見える巨大で場違い感半端無いトーテムポールみたいなものは「将軍標」とかいうものらしい。アチラの国の道祖神。
左が「天下大将軍」、右が「地下女将軍」。意味はよく解りません。
石像なのだが遠目では中学生・高校生あたりが学園祭用に作ったようなハリボテが飾ってあるようにしか見えない。畏怖してというより気持ち悪くて近寄りがたい。

高麗神社 8
「天下大将軍」の後ろ。もう一つの「地下女将軍」の後ろは日本語だったのですが写真が思いっきりブレてたのでこちら。
建てたのは民団のようです。韓日友情年を記念してとか取って付けたような理由で神社の景観に全く合わないものを寄贈したようです。
石像になる前は木製のものがあったようですが、それも現代に入ってからのもの。誰が建てたかは知りません。
残念ながらオールドカマー(7,8世紀に渡って来た人の子孫)を蔑ろにしてニューカマー(近現代になって渡って来た人)が押し付けたようにしか見えません。
やはり感覚が違うんでしょうね。
そもそも高麗(高句麗)は満州から北朝鮮辺りの国で人種的にはツングース系なので支那ならまだしも南がしゃしゃり出て来るのは全くおかしな話なんだけど。

高麗神社 9
高麗神社の近くに在る高麗山聖天院勝楽寺。高麗王若光の菩提寺。
こちらも雷門前に「将軍標」があるが高麗神社のものと比べると違和感が少なめで随分とマシに見える。

高麗神社 10
御朱印

大宮 氷川神社

年末年始にかけてルーター不調やPC故障でネットが満足に使えない状態だったので大晦日の記事を今頃(2015/01/17)アップ。下書きが大晦日なので記事日付は大晦日になります。

大宮の氷川神社に参拝して来ました。
武蔵国の一宮(いちのみや)であるということですが、東京都多摩市一ノ宮にある小野神社も武蔵国の一宮。
大晦日ということもあり初詣に向けて二の鳥居から三の鳥居にかけて500mの間に両側ぎっしりと多数の屋台が準備中でした。翌日の大混雑が目に浮かびます。大晦日に行って正解でした。

祭神
  • 須佐之男命 (すさのおのみこと)
  • 稲田姫命 (いなだひめのみこと)
  • 大己貴命 (おおなむちのみこと)

稲田姫(古事記では櫛名田比売クシナダヒメ、日本書紀では奇稲田姫クシイナダヒメ)は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の生贄にされそうになっていたところを須佐之男により助けられ結婚する。稲田の神。
大己貴(大国主)は古事記ではスサノオとクシナダヒメの6代先の子孫。

一番北の緑のマーカーが氷川神社。赤いマーカーが鳥居で南から順にから「一の鳥居」、「二の鳥居」、「三の鳥居」。
一の鳥居から三の鳥居までの表参道(氷川参道)が1.9km徒歩約23分と非常に長い。一の鳥居は大宮駅よりさいたま新都心駅の方がはるかに近い。
大宮駅東口から三の鳥居までは1.5km徒歩約18分です。

大宮氷川神社 1
二の鳥居前。
鳥居より手前の社号標の横まで出店が。 ここから道を挟んで(氷川神社入口の信号より)南側の遊歩道(氷川緑地)には出店は無し。また、氷川参道と大宮駅から東に延びる県道214号と交わる交差店から一の鳥居までは普通の車道です。
今回は一の鳥居は遠いので廻りませんでした。

大宮氷川神社 2
同じく二の鳥居。木造鳥居としては国内で最大とのこと。

大宮氷川神社 3
境内の中に入って正面に見えているのは楼門。

大宮氷川神社 4
中央が拝殿。拝殿の後ろに屋根だけ見えているのが本殿。初詣の為にフェンスがあちこちに。

大宮氷川神社 5
左が門客人神社(もんきゃくじんじんじゃ)。祭神は脚摩乳命(あしなずちのみこと)・手摩乳命(てなずちのみこと)。稲田姫の両親です。
元は荒脛巾神社(あらはばきじんじゃ)。氷川神社公式の案内には書かれていませんが荒脛巾神が祀られている筈。荒脛巾神は元々この地の地主神。

右が御嶽神社(みたけじんじゃ)。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなびこなのみこと)
少彦名は神皇産霊神(かみむすび)の子(古事記)、高皇産霊神(たかみむすび)の子(日本書紀)で大己貴(大国主)の国造りを助けた。

大宮氷川神社 6
松尾神社。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)。大年神の子で山の地主神。比叡山と葛野(京都)の松尾に鎮座する。

大宮氷川神社 7
松尾神社の後ろの池の出島に浮かぶ宗像神社。
祭神は多起理比売命(たきりびめのみこと)、市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)、田寸津比売命(たきつひめのみこと)
スサノオがアマテラスの治める高天原へ昇った時、アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たと思い武装して出迎えた。
スサノオは邪心が無いことを証明するために誓約(うけひ)を提案。アマテラスはスサノオの所有物である「十拳(とつか)の剣」を3つに折りそこから3柱の女神を生んだ。
この3柱の女神が多起理比売、市寸島比売、田寸津比売。所謂宗像三女神で海上交通の守護神。スサノオの所有物から生まれたのでスサノオの子ということになっている。

大宮氷川神社 8
同じく宗像神社。

大宮氷川神社 9
宗像神社から池越しに神橋と楼門方向。

大宮氷川神社 10
稲荷神社。祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。

大宮氷川神社 11
同じく稲荷神社。氷川神社の境内の中でここだけ雰囲気が違う。

大宮氷川神社 12
天津神社(あまつじんじゃ)。祭神は少彦名命。

大宮氷川神社 13
六社。
山祇神社 祭神は大山祇命(おおやまつみのかみ)。イザナギ・イザナミの子で足名椎命、手名椎命、大年神、倉稲魂の親。
石上神社 祭神は布都御魂命(ふつのみたまのかみ)。人神ではなく霊剣。建御雷神が使った剣。
愛宕神社 祭神は迦具土命(かぐつちのみこと)。イザナミが死ぬ原因になった火の神。
雷神社 祭神は大雷命(おおいかづちのみこと)。黄泉の国で腐敗したイザナミから生まれた雷神。
住吉神社 祭神は底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)。墨江三前大神(すみのえのみまえのおおかみ)、所謂住吉三神。
神明神社 祭神は天照大御神。


住吉三神はイザナギが黄泉の国から戻って筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原(ちくしのひむかのたちばなのおどのあはきはら)の川で禊を行った時に生まれた神。その後に三貴子(アマテラス、ツクヨミ、スサノオ)が生まれる。
ちなみに筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原は祓詞にも出てくる地名。九州の何処か(宮崎とか福岡とか)。

大宮氷川神社 14
御朱印

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