鎌刃城 その3

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前の記事の最後の写真の場所を(主郭の北端近くから北に)振り向いたところ。この城の有名な枡型虎口。虎口は北を向いている。城があった頃は石垣の左右を跨ぐ形で門があったと思われる。

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枡型虎口近くの案内板。

「主郭(しゅかく)
鎌刃城の中心部となる曲輪で、その周囲は石積みによって固められています。曲輪内部では、主殿の一部と思われる縁側を有する礎石建物跡が確認されており、格式の高い建物が存在していたと思われます。曲輪の北辺には石段と石積みで構成される枡形虎口(正門)が設けられており、礎石建ちの門跡が検出されました。これは"城道"と呼ぶにふさわしい本格的なものであり、全国的に見ても中世城郭で確認された例はほとんどありません。安土城をはじめ、後の近世城郭に見られる"大手道"に相当するものと考えられ、城郭史を考える上でも大変貴重な遺構と言えるでしょう。
虎口の他に曲輪の北東隅にも出入口の施設が設けられていたようで、そこに至る石段が今も残されています。ここは、日常の通用口として機能していたと考えられます。
曲輪の南辺及び東西辺の一部には、石塁が存在しています。この石塁は周辺の地面を掘り下げて削り出した地山の高まりの内側と外側に石積みを施して構築されています。波城(城割り)によって上部を壊されていますが、当時の石塁の高さは4m近くに及んでいたと推測され、その防御機能の高さが伺えます。また、南辺の石塁には主郭内部から上に上がるための石段が設けられており、上部幅が3m以上と非常に幅広いため、何らかの建物が存在していた可能性があります。
これらの貴重な遺構は、極力現状での保存と公開を心がけていますが、安全性に問題がある部分や遺構の残存度が悪く当時の姿が判りにくい部分については、保存整備工事を実施して部分的に仮想復元を試みています。」

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同じく枡型虎口近に虎口から見える景色の写真。こちらも色が褪せてしまっている。

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実際に虎口から見える風景。写真に似せて目印も入れてみた。玄蕃尾城跡は福井県との県境なので方向はこのとおりだが、だいぶ遠い。

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虎口の石段を降りたところから虎口を向いて。(南を向いて)

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上の写真を撮った場所の下は崖のようになっていたので廻ってその下に降りてみた。崖だと思った部分には土嚢が積んであった。放置すると斜面が崩れて虎口が崩壊するのだろうか。

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どっちにしろその下は急斜面。「鎌刃城十三丁」とあるが、意味はわからない。

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「鎌刃城十三丁」の表示の左の方の坂を降りてみた。写真の右上から中央にある坂がそれ。主郭は右上。

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上が平らな尾根のような場所に続く。奥の方に何かある。

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2階建ての物見櫓が作られていた。城跡には石ころしか無いと思っていたのでちょっと意外。
見た感じクラッシュオブクランのレベルの低いアーチャータワー(ニヤリ) 自生している木を柱にしているので見た目以上に丈夫そう。はしごの手摺り代わりのロープが張ってあるところを見ると登ってもよいらしい。

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鎌刃城 その2

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斜面の上に「鎌刃城」「南郭」という表示が見える。ようやく城の中心施設部分だ。

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南郭部分。尾根にちょっとした平地がある。地面の白っぽいのはゴミじゃなく岩。

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看板がある。北側を向いているわりには日に焼けたように褪せてしまって書いてあるのが見えない状態。

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画像を加工したら読めるようになった。

「鎌刃城跡
鎌刃城は鎌倉時代に箕浦庄の地頭であった土肥氏の居城として築城されたと伝えられています。しかし城跡は番場の村から離れた山中に立地しており、在地支配の城ではなく、軍事的な目的のためにのみ築かれた城のようです。おそらく土肥氏は番場に今も残る「殿屋敷」に居館を構えていたのでしょう。
鎌刃城は江南の六角氏と江北の京極氏や浅井氏の国境に立地していることから、「境目の城」として室町時代に築城されたと考えられます。文献からも文明四年(一四七二)以降に登場し、六角氏方の今井氏が、京極氏方の堀氏の守備する鎌刃城を攻めたことや、堀氏が後に六角氏方に降り、再入城したことなどが知られています。
堀氏は元亀元年(一五七〇)、同族の樋口氏とともに織田信長に降り、翌年五月六日には浅井長政に攻められています。この時、横山城(長浜市)を守備していた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が応援に駆け付け、長政軍を撃退したことが『信長公記』に記されています。
城跡の規模は県内でも有数のものであり、当城が「境目の城」として重要視されていたことがうかがえます。城跡の周囲は鎌刃の名前どおり急斜面となり、南東尾根続きには七条にのぼる堀切を設けています。主郭は石垣によって構成されており、虎口は枡形となっています。北東尾根上の削平地群には石段を持つ、みごとな内枡形虎口が認められます。また、西側尾根上の削平地群先端には近江では数少ない畝状竪堀群も認められます。こうした遺構は戦国時代末期の特徴をよく示しており、元亀年間の織田軍門下時代に築かれた遺構であろうと考えられます。
なお城跡南東にある清竜滝付近には水の手と伝えられる岩盤をくり抜いて作られた石樋も現存しています。
平成五年三月
米原市教育委員会」

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案内板

副郭(ふくかく)
主郭とともに鎌刃城を構成する主要な郭の一つです。礎石と思われる石材の散在状況から、礎石建物の存在が想定されます。郭(くるわ)の南端の巨大な土塁は、平成12年度の発掘調査から地山削り出し整形によるものと判明しました。土塁の外側には一部石垣が用いられるなど、城の南方防御の要として、その防御性を一層堅固なものにしています。
米原市教育委員会

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上の白看板を離れた場所から南を向いて。

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更に北に進むと人の高さほどの段差がある。

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登ると広い平地がある。(木が何本も生えているけど)

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上の平地の中心から南を向く。

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最も北側に進む。
書かれていることからどうやらここが主郭跡らしい。

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